2009年 04月 16日
文化の割れ目 〜 その25 龍馬・最終章 〜 |
遅咲きの英雄、坂本龍馬の濃い晩年。
普段から、龍馬は「死」というのをことさら重んじていなかったようだ。
「己の生死は天命にあり。」と普段から口にしていたようです。
従来の武士のたしなみとして、どう死ぬか?というのが主題として
あったようだが、この異端で奇妙な武士にとっては
「屁」とも想っていなかったようだ。
”どう死ぬか、というよりも、何をすべきか”
断然コッチの思想のようだった。
なんの後ろ盾の無い、脱藩浪人、坂本龍馬。
彼が、古来から受け継がれてきた日本の在り方をひっくり返す事と成る。
薩摩藩からの出資で、念願の船を手に入れた坂本龍馬。
長崎にて、海軍塾解散によって路頭に迷っていた土佐浪人をまとめ、
彼曰く「カンパニー活動」を始める。
龍馬は、長崎のグラバー商会と深く関係を持ち、信用を得ている。
当時の日本人の感覚では、商人と言えど、西洋寄りの考え・思想を持つ事は、なかなか困難であった。
グラバーは、龍馬が、勝や象山仕込みの国際的思想の持ち主であることを悟り、信用していたという。
この頃、最強の藩であった薩摩藩。
幕府とガチンコで渡り合える藩こそは
薩摩のみ、と謳われるくらいに
強大な勢力を持っていたという。
幕府に反旗をひるがえした、アンチ幕府の
長州藩は、以前の講釈でも話した通り、
幕府&薩摩の軍により、滅亡寸前。
まさに風前の灯火状態であった。
そんな状態にまだまだ不服であった幕府は
更なる長州弾圧を行うことを決める。
そこで、その弾圧の為の出兵を、佐幕派であった
薩摩藩に依頼。
佐幕派最強の薩摩藩である。
依頼も最もである。
しかしながら、実質的に藩を動かしている
西郷隆盛に、龍馬は世界情勢、幕府内情を
刻々と告げ、出兵を止めさせる様、働きかける。
「今は長州だ土佐だのと言っている場合ではない。
国内紛争を行えば、イギリス、フランスが
日本勢力が弱まったところに、猛威を奮ってくるに
違いない。幕府も薩摩が長州征伐後に、今度は薩摩征伐を
してくるに違いは無いであろう。薩・長といった強い両藩が
なくなれば、幕府は安泰であるきに。」
幕府の大久保一翁、勝海舟、幕府政治総裁・松平春嶽らに可愛がられていた龍馬の話に、西郷は耳を貸した。
この旨を考慮し、幕府からの第二次長州征伐に対し、
出兵を拒否することで、藩論を統一した。
これにより、薩摩と幕府は敵対する立場に成る。
これにより龍馬はとんでもないこと、奇跡的なことを
思いつく。
いわゆる「薩長同盟」である。
薩摩・長州は犬猿の仲である。
龍馬が西郷に「長州を手を組んだら??」
と進言しても
「いやいや坂本さん、長州人はワシを憎んでおります。無理でござろう。」
との見解である。
西郷の言う通りである。
誰から見ても、いがみ、憎しみ合うこの2藩。
手を組むなど、誰も想像だにしなかったのである。
龍馬、そして同志の中岡慎太郎は奔走しました。
この同盟が成し遂げられなければ、長州は滅び、勤王の志士は死に絶える。
そうさせないためにも、龍馬は高杉晋作、桂 小五郎らをなんとか説得せねば。
こんな気持ちであったことでしょう。
中岡は薩摩藩をブッキング、龍馬は長州藩をブッキング、融解する係であった。
当然、長州人からは刻々と薩摩の愚痴や嫉み辛みを聴かされた。
龍馬は、そんな長州人をこう説いたという。
「いまは我が藩だなんだといがみ合っている場合ではない。
松蔭先生の教え、叫びを忘れたか。この倒れかかった日本を立て直し、
異国から守らねば、先生は死んでも死にきれんだろう。」
この同盟が成らなければ、長州藩は滅びる。
たとえ憎しみのある藩でさえも、その力は魅力的であったのは
歴然であった。
長州側は憎しみをグッと堪え、飲み込んだ。
命からがら、追放されていた長州人である桂は
幕吏の目をかいくぐり、京に入った。
こんな流れで、歴史的薩長同盟が、京で成立。
この同盟結実が歴史の流れの大きな
分岐点となり、倒幕、維新革命への
大流となる。
龍馬は桂に頼まれ、盟約書の裏書を行っている。
天下の大藩同士の同盟に、一介の素浪人が保証を与えたものであって、
彼がいかにこの両藩から信頼を得ていたかがうかがえる。
いやー、歴史の授業でも習いましたよねー。
こうやってこの薩長同盟が成った訳なんですねー。
はぁ.........、歴史ってのは、本当に興味深いです。
この歴史的同盟を演出した、坂本龍馬。
龍馬はここに来て、最大のピンチを迎えます。
これも有名な、幕吏による、寺田屋襲撃です。
後の龍馬の妻、お龍が、お風呂場からスッポンポンのまま、幕吏襲撃を
龍馬に伝えたことはとても有名なエピソードである。
長州側から、龍馬の護身係として付けられていた三吉慎蔵とともに
この極地を逃げ切る。
この襲撃によって龍馬は手に深手を負い、熱が中々下がらず、
静養生活を余儀なくされる。
西郷らの計らいで、この襲撃による龍馬逃亡の共犯として手配された
お龍と共に、鹿児島へ旅行する。
これが日本初の新婚旅行と言われている。
龍馬は天下の志士、浪人である。
世を改革する為に奔走している身。
何時、何処で命を落とすかわからない。
そんな自分が所帯を持つなんて、龍馬自身も考えていなかったであろう。
しかしながら、お龍を巻き込んでしまったのは事実。
放っておくことは出来ないと決めた龍馬は、
お龍を娶る。
いよいよ幕府による第二次長州征伐がはじまった。
龍馬は海援隊として長州側について、海戦に参加。
この長州征伐の際、指揮を取ったのが、謹慎を解かれ、軍艦奉行に復帰した勝海舟。
龍馬に取っては、生涯を通じての大師匠。
きっと心に一物抱えながらの長州加勢だったであろう。
しかしながら、戦の指揮を勝海舟は立ち会っておらず、当時の将軍・家持の臨終の場に付いていた。
勝のいない幕府軍は弱かった。
長州の豪傑・高杉晋作の指揮のもと、海・陸ともに長州の連勝。
幕府は逃げ帰えり、幕府の持ち城、小倉城も落城。
長州の勝利であった。
この長州の勝利によって、薩長同盟成立が各諸藩に広まる。
佐幕派であった藩は、幕府に付くべきか、勤王派、長州・薩摩につくか
迷いに迷っていたという。
龍馬の故郷、土佐も然りだった。
そんな中、土佐藩上士、板垣退助はいち早く勤王思想に傾き始め、
勤王の志士らと関わっていく。
そこに、薩摩、長州の同盟に土佐藩も加えようと奔走していたのが
中岡慎太郎。
中岡慎太郎と板垣退助は永きに渡っていがみ合っていた上士と郷士。
ここにきてお互いの利害に一致し、会談を持つ様になっていた。
土佐藩家老・後藤象二郎もそうであった。
後藤象二郎。
彼も土佐藩上士である。
龍馬の盟友、武市半平太率いる土佐勤王党を弾圧した人物でもある。
龍馬や土佐郷士からしてみれば、後藤は敵筋に当たる人物だ。
彼と龍馬らは因縁が深い。
そんな土佐藩も、薩長同盟が
成し遂げられた事で覆った、この時勢に
乗る事に必死であった。
公武合体期から、再び尊王攘夷の流れに。
後藤は、この薩・長に土佐も混じりたがっていたのだ。
そこで、後藤は龍馬に会談を取り付けようとした。
土佐の家老が、一介の脱藩素浪人に会談を要請する。
これまでの土佐藩では、考えられないことである。
しかしながら、海援隊の隊士たちはこれを快く想わない。
海援隊を構成する隊士は、陸奥宗光ら以外は、土佐郷士が
中心であった。
彼らの後藤を初めとする上士たちに対する憎悪は、深い。
時流が変わったからと言って、ヒョコヒョコ我らに寄ってくるとは
許せぬ。......こんな思いであったのだろう。
龍馬は、隊士たちの想いとはウラハラに、
会談を設けた。
龍馬にとってもカタキは仇。
龍馬は北辰一刀流の最上階級免許皆伝である。
なんなら斬りつけることも容易であろう。
家老、後藤と龍馬は会談した。
後藤は下座、龍馬は上座。
どうであろう、この図。
大藩の家老が下座である。
浪人が上座である。
この図式が、もはや日本が変わりつつある証拠でもある。
会談の末、龍馬は土佐藩と協力することにした。
この結果に、海援隊士からは反発を得ながらも、
龍馬はもっと広い視野、先を見ての決断であった。
目先の恨みや仇を討つよりも、薩・長・土の三藩で同盟を組み、
強大な勢力同盟にし、幕府体制を倒し、身分制度を潰す.......。
これが本当の「仇打ち」であると龍馬は考えていた。
まだ血気盛んな隊士たちには、龍馬の真意は伝わってない......。
この頃、長州の英雄・高杉晋作が死去。
倒幕を目の当たりにせず、逝ってしまった。
辞世の句 「おもしろき こともなき世を おもしろく」という名言を残しながら。
龍馬は海援隊を率い、土佐藩から薩摩藩へ銃器銃弾を積み、運んでいたのであるが、彼らが操縦する「いろは丸」が沈没事件が起こり、
御三家紀州藩に損害賠償をさせる。
このお陰で龍馬は幕吏らは元より、紀州藩からの刺客からも
狙われる立場になってしまった。
行動を後藤と共にしている龍馬。
時勢は勤王派が押している。
いよいよ幕府と薩長との大戦が予見されていた。
物価は高騰し、農民町民一揆が続発。
それに追い打ちを掛ける様に作物は凶作。
迫る異国の脅威。
そんななか、民衆の鬱積や不満がドーパミン的に爆発した
お祭り、「ええじゃないか」音頭が大流行。
薩長と幕府の大戦が始まれば、江戸に居る龍馬の千葉道場の恩師や友人たちが
戦に巻き込まれる......。
そんな中、更に龍馬は、薩長同盟に匹敵するくらいの
発明的な策を思いつく。
「大政奉還」である。
徳川幕府に300年間近く実権を握っていた政権を
自分から手放し、朝廷に返上させ、薩長が戦をする理由をなくす。
そうすれば無駄な血が流れないで済む。
そうすれば、徳川家も滅びずに事無き事を得る事が出来る。
この旨を、土佐藩主 山内容堂に徳川家に進言させ、実現させる......という策であった。
この案を聞いた後藤は、痛く感心し、大政奉還 結実へと奔走しはじめる。
この魔法の様な政策を考え出し奔走し始めた事によって、桂・西郷らと
固く結ばれていた友情が崩れることになると、龍馬は知る由もない。
更に、倒幕結実後、薩摩・長州だけに実権を握らせてはいけない、と考えた
龍馬は、新政府法案を考慮する。
これが、後の日本憲法の土台に成ったと言われる、「船中八策」である。
独裁政治、身分制度をなくし、民主主義で自由な国家にする。
人は、身分によってではなく、人格によって評価され、
身分によってではなく、その人の能力と努力によって、
やりたい仕事に就け、人は決して、故なき束縛、差別を受けず、
理不尽に遭わず、抱いた夢や志が、権力によって踏みにじられることが
決してない世に.......。
倒幕するこの革命が、このような世の中をつくるのでなくては、
いったいなんのために、これまでの愚かな同じ人間同士の血の流し合い
であったか.........。
龍馬はこの自分の考えを、まずは薩摩藩に話した。
武力倒幕に燃える薩摩藩。
柔らかい頭の持ち主である西郷でも、龍馬のこの考えには
閉口したという。
武力倒幕に揚がる薩摩。
もはや、無血革命はありえない。
このような生温い処置は、薩摩にはありえないのだ。
ましてや幕府がこの大政奉還を進言したところで、
受け入れる訳が無い、というのが薩摩の見解。
こんな考えをぶつけて来た薩摩は龍馬が幕府と通じているとみたという。
龍馬は更に大政奉還の真意をぶつける。
土佐藩を通じて、大政奉還を徳川幕府に進言させる。
これを口実に、土佐は京に軍をのぼらせ、必ずや薩・長・土で
武力倒幕の手筈は取る、と強く西郷らを説き伏せる。
渋々、薩摩藩は大政奉還案を呑んだ。
これには、薩摩藩士から大ブーイングだった龍馬。
一方長州。
やはり薩摩同様、大政奉還案を龍馬から説かれても、反発だけであった。
何故に、ここに来て、坂本はこんな生ぬるい事を言うのか。
武力倒幕準備を着々と進めていた薩長は、こう想ったのであろう。
しかし、デモクラシー、民主主義を設立するには、この大政奉還しかない。
薩・長・土の協力な威圧、圧力。
3つの藩が睨みを効かしている。
龍馬たちも海援隊たちも徳川の返答次第では
斬り込むつもりの覚悟だ。
.........時勢を組んだ徳川は、大政奉還を受け入れ、300年続いた看板を降ろした。
龍馬の目論みは、願いは、結実したのだ。
龍馬、決断を下した最後の将軍、徳川慶喜の胸中を察し、
事の次第を想い、感極まって涙したという。
龍馬は以前に考案した船中八策を、薩摩藩邸に居る西郷を訪ね、見せる。
西郷らは、倒幕後の用意が不十分であった。
しかし、龍馬は考慮していた。
西洋の政治の在り方を熟知していた龍馬の法案に
西郷らはグーの音も出なかったという。
依存なし、ということである。
更に龍馬は、船中八策の他、新政府考案の中で出て来た役職名簿を西郷に見せる。
どの藩から誰がどの役職に就くか。
それがその名簿には記入してあった。
関白は朝廷である三条実美、副関白に徳川慶喜。
議奏に薩摩・島津、長州・毛利、越前・松平、肥前・鍋島、
宇和島・伊達、公家からは岩倉具視らを選出。
参議には、薩摩からは西郷、小松、大久保。
長州からは桂小五郎、広沢。
土佐からは後藤象二郎。
.......その他。
大政奉還結実に一役かった土佐藩からは後藤のみという
控えめにした龍馬。
配慮というものを知っている男である。
.........しかし。
しかしである。
西郷は戸惑う。
この無血革命を成し遂げた功績者はまがいもなく坂本龍馬なのだ。
その龍馬の名が、名簿に載っていない。
????マークの西郷。
名簿を手にした西郷が、龍馬に問う。
「........坂本さん........、土佐から出るべき、おまんさぁの名が落ちちょりもんど......。」
「ん.....、わしかいの?わしゃあ、出らん。」
「なぜでごわす???」
「窮屈な役人は性に合わんがよ。」
「役人ばぁやらんで、おまんさぁは、なにをしもはんど?」
「そうさぁなぁ.........、世界の海援隊でもやりますかいのう。」
この新政府考案の場に同席していた海援隊士・陸奥宗光は、
この龍馬と西郷のやりとりを後年何度も何度も
回想し、こう人々に話したという。
「その時の坂本は 西郷より2枚も3枚も大人物に見えた」と。
日本の大革命、維新に大功績を残した人物、坂本龍馬。
その功績なんかにはまったく価値を見出さず、サラリと身を引いたのだ。
政治的地位や社会的地位などは、龍馬の眼には、全く魅力に映らなかったんだろう。
時は流れ、大政奉還 結実の8ヶ月後。
龍馬は、相棒・中岡慎太郎と一緒に、大政奉還の最終の詰めの会合を京は近江屋で行っていた。
外では民衆の不満が大爆発した、ええじゃないか音頭が騒々しく京の街を
包んでいた。
ええじゃないか! ええじゃないか!
龍馬はこれからの日本の構造を中岡と打ち合わせている。
龍馬は、ここ近江屋で、中岡とともに、志半ばで、
命を失うこととなる。
この暗殺にはとても謎が多いのですが、
龍馬を暗殺した手練は、近代の研究によると、
見廻組の仕業と考えられている。
命は天にあり、と考えていた龍馬は、
この日に命を天に還した、ということになる。
奇しくも、龍馬33歳の誕生日に起こった出来事であった。
龍馬、最後の言葉は「わしゃ、脳をやられちょる。もう行けん。」
龍馬は北辰一刀流の最高目録の免許皆伝である。
そんな剣の達人である彼は、一生涯、人を斬った事がなかった。
後の外務大臣であり、海援隊士である陸奥宗光の例の回想は、
こう続く。
「坂本は、近世史上の一大傑物にして、坂本は一方においては
薩・長・土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて、幕府に対抗する
一大勢力を起こさんとすると同時に、直ちに幕府の内閣につき
平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ 幕府をして諸候を率いて朝廷に朝し、
事実において大政大臣たらしめ、名において諸候を
平等に臣属たらしめ、もって無血の革命を遂げんと企てぬ。
彼 もとより土佐藩の一浪士のみ」
つくづく不思議な人物であった、坂本龍馬。
自分がやりたいことをやるために、日本を変えた男。
改革の礎を創って、この世を去った男。
自由な世を夢見て、その夢を、夢のその先を叶え、掴みかけた。
今の僕らがこうして生きられるのは、彼のお陰なんじゃないだろうか。
僕は真面目に、そう想ったりする。
by green-ball
| 2009-04-16 13:17
| 文化