文化の割れ目 ~その85~ |


みなさん!
割れてますか!?
どうなんですか?
youth records/factory1994/HANDSOMEの
庄司信也です。
だす。
ワタクシは、この夏、ある日本史に黒光りするミステリー事件にズブズブとハマっていたのです。
その名は、「下山事件」である。
勿論、この事件は以前から興味を持っていて、
簡単な概要は知っていたのですが、細かなディテール、そしてその事件の裏に在る時代背景を
今夏追求すべく、仕事で向かった青森駅までの移動時間で、下山事件関連書簡の読書に興じたのです。
下山事件は、約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー」と呼ばれている。
どれもこれも、血なまぐさく、悲惨で恐ろしい事件ではあったのだが、
皮肉なことに、結果、この事件らが、戦後日本の歩むべき道の光になってしまったのだった。
下山事件概要を説明すると、
1949年(昭24)7月5日午前9時半、初代・日本国有鉄道の総裁である下山定則が、
三越本本店に入り、その後行方不明になった。
翌6日未明に、旧国鉄常磐線の北千住と綾瀬の中間地点で轢死体となり発見された事件である。
当時60万人の国鉄社員の人員削減において労働組合の反発の中で
総裁に就任した下山定則は10万人規模の人員削減政策の矢面に立たされ苦悩していた。
その死因を巡っては、生体轢断(飛込み自殺の裏付け)か死後轢断(他殺の可能性)となり、
警察内部でも自殺か他殺かの大論争になり、さまざまな憶測を生んだ。
結局、当時の警視庁からは事件の捜査公式発表は無く、
翌年に捜査内容は「下山事件白書」として一般誌に流出、自殺と結論している。
推理作家の松本清張は、1960年(昭35)に連載開始の『日本の黒い霧』で、
この下山事件を「下山国鉄総裁謀殺論」として発表した。
GHQ(連合国軍総司令部)占領下の日本は独自に法令の起案をすることは出来ない。
日本の行き過ぎた進行勢力を後退させるのがアメリカ=GHQであるが、
下山総裁はGHQ案に抵抗、G2(参謀第2部/作戦部)の指揮下にあるCIC(軍諜報部隊)により
自殺と他殺の両シナリオを用意された上で、謀殺されたという推理をしている。
(この時点では松本清張はG2指揮下のキャノン機関の関与は無いとしている)
「下山事件」を殺人事件とした場合、15年目の1964(昭39)年に時効が成立した。
1973年(昭48)、朝日新聞の記者である矢田喜美雄は、
この事件を24年かけて取材し『謀殺 下山事件』として纏めた。
下山総裁怪死までの100時間を追い、独自の取材を通して、
下山総裁の死体を線路に運んだ実行犯の証言、下山総裁誘拐車の目撃者、
誘拐犯の残したノート内容などの新事実に触れて、CICが日本人数名を雇い工作した事件としている。
一方で、1976年に、佐藤一は謀殺論に対し真っ向から反論する自殺説を採った
『下山事件全研究』を出版する。(2009年に新刊が出版)
2005年(平17)の柴田哲孝の『下山事件―最後の証言』は、著者本人の祖父が、
下山事件に関与しているかもしれないという衝撃の内容だ。
その祖父の在籍していた貿易会社亜細亜産業代表者へのインタヴューや、
関係のあったG2指揮下のキャノン機関を調査、その新事実究明に自ら挑んでいく。
これは既に時効が成立した案件である。
勿論、当時を生きていたものは年老いているし、
既に他界しているものもいる。
いまさら何を騒ぎ立てているか、という思いもあるであろうが、
やはりこのミステリー。
真相を知りたい。
特に激動の戦後昭和の時代を司った最大の謎。
この思いに駆られること請け合いなのである。
真夏の暑苦しい時間をまんじりともせずに
汗をかきながらかつての日本史実を紐解くのは
これまた一興。
貴方はこれらの書簡に目を通した途端、
下山インフルエンザにかかるであろう。
その病気は、真相を掴むまで、消えないのである。