文化の割れ目 その22 〜後編〜 |



大和魂、という言葉がある。
いまでは格闘家の紹介のキャプションにしか
使われなくなってしまった。
現在の日本のご時世で大和魂を見せつけたり、
胸に宿す事など、めったにないであろう。
戦争も無い平和ボケしたこの国では。
でも、それは良い事だと思う。
かつての侍たちには宿ってあったのであろう。
確実に。
その胸に大和魂が。
後編の解釈は、その「大和魂」から。
その言動からの影響力がある危険人物であるとされ、
幕府大老・井伊直弼より死罪を与えられた、
吉田松陰。
彼は、いち早く異国文化に開眼し、これからの日本の未来は
鎖国政策を見直して、異国文化を取り入れた政治を行わなければ、
出遅れを取ってしまい、異国から攻められ、植民地にされてしまう、
という旨の考えを持っており、自身の私塾などで説いてきていたのだ。
彼に賛同する者たちが増えることは、勿論、徳川幕府としては面白くないのであります。
で、死罪になってしまったのであります。
嗚呼。
このとき、切腹ではなく、もっとも屈辱的な斬首だったという。
そのことを告げられた松蔭は、取り乱しもせずに、
静かに歌をしたためたという。
この松蔭・辞世の句(人生死ぬ間際に残す、遺言的な詩の事を示す)が
日本に眠っていた若き日本の志士を奮い立たせた歌である。
「身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
訳すと、こうだ。
「この身はたとえ、この武蔵の野辺に死に絶えても、俺の大和魂はいつまでもこの国で生き続ける。」
この歌を静かに詠み、29年の人生に幕を閉じた。
松蔭の弟子であった、高杉晋作や桂小五郎らは、松蔭を処刑した幕府を
必ず後悔させてやる、と決意したという。
後の倒幕派、長州藩の命運の舵を取る、重要人物になる。
一方、故郷・土佐に戻った龍馬は、
心に一物抱えつつも、同郷の武市半平太が率いる土佐勤王党に入党。
そのほとんどが、土佐では低い身分である郷士による構成であった。
しかしながら、いまいち龍馬は、武市らが考え唱える武力行使型の政治改革に
あまり共鳴していなかったのだ。
この頃の時勢は、(前述の通り)300年続いた鎖国政策が崩壊し、
不条理条約を強引に取り付けられた挙げ句、
日本にはたくさんの異国人たちが出入りしていた。
このお陰で国内の物価が高騰し、日本経済は大きな混乱を招いた。
この状況は多いに民衆の不満を駆り立てるモノであるのは言うまでもない。
おまけに永きに続いた鎖国の為、まったく異人に無知であった群衆の
人種偏見が加わり、日本人の異人への反感は頂点に達し、
外国人殺人事件が起こった。
こうやって、幕府の権威はますます崩壊していったのであった。
まさに日本は風雲。
混乱し、もがき、揺れと惑っていた。
龍馬がいる土佐も不運の最中。
武市半平太を党首とした土佐勤王党の動きも活発になっていた。
長州(山口県)薩摩(鹿児島)と同様、
土佐藩を勤王一色に染め上げ、攘夷に立ち上げようとした。
(要するに勤王とは、天皇・朝廷への奉公を指す。政治主導権を天皇に戻し幕府政権をなくす、幕府を倒す、ということ。)
党首・武市は、この旨を土佐藩主・山内容堂の参政である吉田東洋に伝えるため、
直談判しに藩庁へ出掛けた。
しかしながら、吉田の考えは佐幕派。
天皇や朝廷になにができる、という腹であったのだ。
この真意を聞いた武市は、吉田東洋の暗殺を決意。
これしか日本は、土佐は生きながらえる術はないと判断したのであろう。
補足で付け加えると、武市半平太は藩主・山内容堂の心酔者だった。
自身の剣術修行にも多額の補助金の恩恵を預かり、自分に目をかけてもらっている、
と自負していたらしい。
東洋を亡き者にし、勤王論、攘夷論を唱えれば、
必ずや藩主は自分たちを理解してくれると思い込んでいたのだった。
しかしながら龍馬は、この暗殺に待ったを出す。
低い身分である郷士の訴えなど、ただの戯言としか容堂は思わないだろう、というのが
龍馬の見解であった。
しかしながら、武市は容堂陶酔者。
容堂の盲信するな、という龍馬の訴えを武市は回避。
議論の末、駄目出ししたのもあり、党首の武市とぎくしゃくした龍馬は離党。
龍馬はもっともっと広い大地と世界を求め、脱藩する。
今でこそ隣の県や、ましてや海外なんて、あっさりいけちゃう時代です。
この江戸時代ではとんでもないことだったんです。
いやはや、凄い時代ですねー。
当時、脱藩とは、藩主を見限るということを意味し、
かなりの重罪だったのです。
当人はもちろんの事、その家族、末裔まで罪は及びます。
龍馬の家族たちは、龍馬の大働きをバックアップしようと決めたのです。
ここで龍馬の有名な言葉が生まれます。
「今一度、日本を洗濯いたしたく候。」
脱藩したが最後、永遠に故郷には戻れません。
それでも龍馬はひたはしりに走ったのです。
武市は、土佐勤王党の中から、後の「人斬り以蔵」として有名な岡田以蔵他、
大石団蔵、安岡嘉助、那須信吾らを使い、吉田東洋を暗殺。
東洋暗殺は、龍馬脱藩の直後に起こったので、
当初は龍馬が暗殺犯の疑いをかけられていました。
その後、龍馬は九州を放浪したのち、
京を経由し、修業先であった江戸の千葉道場に身を置いていた。
この江戸までの道中、東洋を天誅・暗殺を実行した4人と龍馬は京で出会った。
4人は東洋の首を河原に晒し、証拠を隠滅した後、土佐を脱藩。
京に上っていた。
土佐の政治運営、ブレーンであった東洋亡き今、
新しい土佐藩主であった18歳の山内豊範を
武市が自身の勤王論で説き伏せ、事実上の実権を握っていた。
藩の金を自由に使える身になった武市は、褒美として
彼らの京での生活を支える資金を送金。
一方、龍馬は長旅も相まって、乞食同然の風体。
彼らと自分の成りや待遇は、まるで月とスッポン。
このときばかりは流石の龍馬も自分の考えがグラついたと言う。
この時分、龍馬は、後に京の常宿とし、第二の実家の如く親しむ、
あの有名な「寺田屋」の女将、お登勢と出逢う。
江戸についた龍馬は毎日を茫漠と過ごしていた。
なつかしい修行時の戦友や師匠筋の人間らの
暖かい人情に包まれるも、金のない居候の身。
同士である長州藩・高杉晋作や桂小五郎を藩邸まで訪ねるが、
両者とも京へ居るという。
龍馬の心の孤独感は癒されずにいた。
龍馬、江戸にて無為な日々を過ごす.......。
そんなある日、やっとのことで龍馬は高杉と逢う事が出来た。
高杉との会談で、勝海舟の名前が挙がる。
日本を滅ぼす大好物、幕府軍艦奉行、勝海舟。
勤王の志士たちから見れば、更なるアメリカかぶれの開国論者だった勝は
格好の標的であり、一番の憎むべき立ち位置にある人物だ。
そう高杉に入り知恵された龍馬は、勝海舟を斬る事を決める。
龍馬は初めて人を斬る覚悟を決めた。
脱藩したは良いが、なかなか己の道を見出すことができなかった
龍馬の寂しい決意だった。
勝海舟が龍馬に取っての、生涯きっての師匠に成る事は、
勿論、このとき龍馬は知る由もない。
龍馬は勝を斬りにきた。
勝は「オイラを斬る前に、あんたぁ、俺の話をちょいと聴いてみな。」
龍馬は勝の講釈を聴く。
今現在、日本がおかれている現状、そしてこれから日本が進むべき道を、
そしてアメリカに置ける民主主義制度を龍馬に説いた。
元々龍馬も、剣術修行で黒船の凄さを目の当たりにした龍馬。
異国から日本を守る為には、日本も軍艦が必要である、という考えだった龍馬は
勝の話を食い入る様に聞いた。
この小さい島国、日本。
この中で、佐幕だ勤王だと歪み合っている場合ではない。
この内争中の日本を虎視眈々と狙っているのが異国である。
日本の一大事に、日本同志で争っているときではないじゃないか!
これが兼ねてからの龍馬の意見だった。
この龍馬の持論と初めてピッタリFITしたのが勝の見解だったのだ。
元々勝に天誅を与えにきた人間である龍馬。
この見事な勝の考え、理論に痛く感動/共鳴し、思わず弟子に志願した。
坂本龍馬、勝海舟、この出会いが、後に幕末の日本史を動かす事に成る。
勤王の志士の標的だった勝海舟の弟子になってしまった龍馬。
いわば、佐幕派、そう、幕府側に龍馬は付いた、との見解をされるのがあたりまえである。
龍馬は心底、勝に惚れ込んでいた。
これまでどういう身の振り方すればいいか解らなかった
龍馬に取って、勝という存在は、自分の歩むべき道を照らす光になったのだ。
この出会いで、龍馬は土佐勤王党ら、
勤王派のパイオニア長州藩らと、
これまで培ってきた友情を壊してしまった。
友達、同志を一気になくしてしまった龍馬は、
勝に紹介された越前藩主・松平春嶽、三岡八郎ら
新しい友情を育み始めた。
友情とはいえ、松平春嶽は、いわゆるお殿様である。
本来ならば、一介の脱藩素浪人である龍馬が逢える訳が無い人物である。
この混乱の幕末の時勢ならではの出来事であったと言えるだろう。
更に龍馬は、勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、
操練所から設立された神戸海軍塾の塾頭をつとめる。
今、異敵から日本を守るのは「軍艦」だ。
これが倒幕派(一応)の龍馬と幕府側役人の勝海舟の共通理論であった。