2009年 04月 08日
文化の割れ目 その23 〜 続・後編 〜 |
龍馬は16歳の頃、こんな歌を詠んだ。
「世の中の 人は何とも言わば言え 我がなする事 我のみぞ知る」
”世の人が言いたければどうとでも言ってくれ 俺のする事は、俺だけが知っている”
訳せば、こんな風な意味に成る。
まさにこの歌の如く、龍馬は我が道を走り出す。
まさに遅咲きの英雄である。
一方、京では、全国から「勤王の志士」と自らを売り込み、勤王派の土佐、長州らから
幾ばくかのお金を貰い食いつないでいた浪人だらけ。
幕府の重役の首を取り、名を挙げたい一心の素浪人で京は溢れていたのだ。
多分に漏れず、武市半平太率いる土佐勤王党も活動範囲を
京に置き、勤王活動に精を出していた。
武市は、勤王の敵と見れば、党員である剣客・岡田以蔵を使い、天誅と言う名の暗殺を行使。
血なまぐさい都に成っていた、京。
同藩・同輩であった龍馬を、勝海舟から離そうと、武市は勝を斬る様に
岡田以蔵に命じる。
以蔵も龍馬と古き仲で、龍馬の行く末を心配していた。
「龍馬は勝に洗脳されている。俺が勝を斬り、龍馬の目を覚まさせなければ。」
以蔵の胸中はこの通りだった。
龍馬は丁度、京にある武市の借家を訪れていた。
武市から勝の元を離れる様に説得を受けていたのだ。
藩邸を見回すと、岡田が居ない。
「武市さん、以蔵さんは?」
「しらぬ。女のトコでもいったんじゃろ。」
この武市の空返事からピンときた龍馬は
すぐさま藩邸を出て、勝の宿舎へ一目散に向かう。
案の定、以蔵は勝の宿舎付近で、まちぶせしていたのだ。
「日本を滅ぼす大好物且つ極悪人、勝海舟、天誅!」
と叫ぶと、以蔵は勝に斬り込んだ。
勝は勝で、直神影流・免許皆伝の腕である。
しかしながら、実戦で腕を慣らした以蔵の殺気立った刃とは月とスッポン。
押されるのは必至である。
いよいよという時。
「いぞーさーぁーんっ!!ちょっとまちー!!」
龍馬が現場に走り込んで来たのである。
以蔵の刃と殺意を止めた龍馬。
「以蔵さん!勝先生は日本の宝じゃぞ!殺したらいかん!!」
「りょ、りょうまぁー!??」
以蔵をなだめ、勝・暗殺をなんとか食い止めた龍馬。
以蔵を説得した龍馬は、良い事を閃いた。
以蔵を勝の護衛にすれば、こんなに心強いことはない!と。
岡田以蔵は土佐勤王党の手だれである。
いわば龍馬と勤王党は敵対している位置にあるといっても過言ではない。
無理を承知で龍馬は以蔵に勝海舟の護衛を頼む。
龍馬の頼みでは仕方ないということで以蔵は承諾。
勝が血生臭くなった京を闊歩する際は以蔵が護衛に付いた。
当然、勤王派から見れば、奸賊・勝海舟である。
浪人たちから狙われる狙われる。
勝の身に降る火の粉を振り払う様に、
「弱虫どもがなにをするかーっ!土佐の岡田以蔵が相手じゃー!!」
と一喝し、襲ってくる浪人をバッタバッタと斬りまくった。
その様を見て、勝は
「岡田君、人を斬る事を好んではいけない。それは武士の真の姿ではない。
以後はつつしむべきだ。」と注意した。
以蔵は
「はぁ.......、でも、あのとき私が斬ってなければ、勝先生の首は飛んでましたよ。」
この一言には流石の俺でも言い返せなかったと、後の回顧録でこの出来事に触れ、苦笑している。
歴史に殺人者・人斬り以蔵という名を残した岡田以蔵が、ただ暗く危険な惨殺者という
イメージだけではなく、どこか愛すべき人間であったという印象を持たせるのは、
この龍馬の願いを聞き入れ、勝海舟の護衛を引き受けたというエピソードからだろう。
その頃、無法地帯化した京の治安維持、そして名ばかりの勤王の志士に天誅を与える為に
会津藩のバックアップで、幕末最強の人斬り集団を結成させる。
「新撰組」である。
この最強の人斬り治安維持集団と龍馬があいみまえた記録は史実上では残ってはいないが、
この風雲の時勢の中で、顔を合わせていない筈はない、と考えるのが妥当だろう。
さて、龍馬はこの頃、神戸海軍塾の生徒募集に奔走していた。
今の日本に必要なのは、そして救う道は海軍を育てる事意外に無い。
そう信じていた龍馬は韋駄天の様に走り出した。
まず、海軍塾の運営を存続させる為の資金集めである。
幕府、佐幕派会津藩は新撰組の運営費でお金がない。
ならば、知り合いである越前福井の松平春嶽の元へ出向き、
勝海舟からの教えである、株式会社の構造を松平候に説き、
海軍塾存続の為の資金を見事 getする。
いやー、凄い。
いくら幕府奉行の勝海舟の弟子だと言っても、
いってみりゃ、一介の素浪人の身である龍馬ですよ。
越前の松平と言えば、大藩主。
ましてやお目通りどころか、自身の先見の明をもって
説き伏せ、軍艦塾の資本金を松平から引き出した。
そのユーモア、発想、説得力。
龍馬はこのころ、後の妻と成る、楢崎 龍(通称・お龍)と出逢っている。
龍馬の口利きで、龍馬の京での常宿、寺子屋に奉公することとなっている。
NHK大河ドラマ「新撰組」では僕の相棒・伊賀大介くんの奥さんがお龍の役でしたね。
ハマり役だと思いました。
ここで........京は大きな政変が起こる。
この頃、京で一番の勢力を持っていたのは、
激しく尊王攘夷を謳い、公家らを攘夷色に染め上げていった
長州藩。
そして最も早く、藩主・島津久光を上洛させていた
薩摩藩。
それと、京都守護職であり、新撰組を抱える、会津藩。
この3藩であった。
現在の様な統一日本の県と違い、他藩は他国、仲の良い藩などはなく、
特に長州と薩摩は、同じ勤王を掲げるため、ライバル意識が強く、
と・に・か・く 至極、仲が悪かった。
有力公家を担ぎ上げ、尊王攘夷を押し詰め、長州藩の独走態勢であったのだが、
当時の天皇・孝明天皇には倒幕の意志がなく、公武合体が願いであった。
いわゆる公武合体とは朝廷側と幕府側が手を結ぶ事。
これを知った薩摩は今度は長州を追い落とす作戦に出た。
会津藩と手を結んだ薩摩藩は、長州藩を京から追い出したのだ。
こうして二大雄藩はお互いをいがみ合い、憎み恨み、殺し合う関係を作ってしまったのだ。
坂本龍馬がこの犬猿の仲の両藩の手を握らすその日まで......。
そして、この政変により、時勢は一気に勤王倒幕から公武合体へと
流れが変わった。
勤王の旗本の一員であった武市率いる土佐勤王党。
公武合体の線が色濃く出てしまった長州藩なき今、
京での武市の居場所はなくなっていた。
これをみて、土佐に戻っていた山内容堂は、長州と太いパイプを持っていた
土佐勤王党・党首 武市半平太に、もはや利用価値なし......と判断し、
堪えていた牙をむき出すのであった。
京を離れ、土佐に戻った武市。
程なくして武市は、容堂の命により投獄され、後に切腹。
藩主・容堂を盲信していた自分の未熟さ、無念さ、己の意地を
見せつける為に、誰もなし得なかったといわれる三文時斬りを成功させ、見事に果てたという。
同時に岡田以蔵も捕まり、斬首。
同じ脱藩浪士である吉村、那須らも「天誅組」という部隊を率い、
敢えて負け戦を企て、幕府に潰された。
こうして土佐藩の弾圧によって、土佐勤王党は壊滅。
龍馬は思いました。
何故、皆、死に急ぐのか。
もっと賢く、楽しい生き方を出来ないのか。
こういう龍馬の考えは、当時としてはナンセンスな思考で、
侍といふものは、モノノフというものは、死に様をどうすべきか、
ということにこだわった。
龍馬と同等の考えを持つ者は皆無であったのだ。
吉田東洋の殺害容疑が晴れていない龍馬にも土佐藩の弾圧は
及び、龍馬、再脱藩。
龍馬は一度、松平春嶽や勝海舟らの働きによって
一度目の脱藩の罪を許されていた。
もはや龍馬には大義を成し遂げる為には脱藩する事など屁とも思っていないのだ。
1864年、ようやく龍馬、念願の神戸海軍操練所が創立される。
時勢が公武合体へと傾くと、ますます弾圧が激しくなっていった
京の攘夷過激派の救うべく、北海道蝦夷地への移住計画を進める。
しかしながら、かの有名な「池田屋事件」によって、その救出作戦はなくなってしまった。
京の治安維持警察「新撰組」が取り仕切ったこの事件。
要するに、京都に潜伏していた長州藩/土佐藩の尊王攘夷派の
結束密会を摘発した形である。
この池田屋事件犠牲者には、龍馬の蝦夷地移住作戦の視察者として蝦夷に
派遣された望月亀弥太、北添佶摩もいた。
もともと龍馬とともに、勝海舟の下、海軍操練所に海軍法を学んだ同志である。
勤王の志士としての自負が強かったこの二人は、龍馬の命により
蝦夷視察をしてきたのだが、これを不服とし、もっと
勤王の志士として働きたい!果てたい!!という強い願いから、龍馬の元を離れていった者たちである。
龍馬からは、尊王攘夷過激派とは付き合うなと諭されるが、これに反発し、池田屋で尊王攘夷決起集会に参加していたところを、新撰組に斬り殺されたのだ。
志しある若者たち20数名。
全員絶命。
望月は絶命の際、断末魔の叫びの如く「龍馬さぁ〜〜〜ん!!」と叫びながら死んでいったという。
この後、池田屋事件の報復として知られる長州藩主導の「禁門の変」が京で勃発。
公武合体で、京を追い出された長州藩は、なんとか時勢を勤王に再び戻す事に必死であった。
幕府・会津藩・薩摩藩 VS 長州藩。
序盤は長州勢が会津藩を制圧することに成功したが、
途中から参加した、薩摩藩の助太刀により、
長州は敗走した。
このころの薩摩藩はまだ幕府側に付いており、
幕府の助太刀をし、長州を制圧した。
しかしながら、薩摩の大将「西郷隆盛」は、
龍馬と同じ「アンチ・国内戦争」という考えの持ち主だった。
禁門の変終了後、幕府の持ち物であった、勝と龍馬の夢「神戸海軍操練所」の門下生が、長州側に多数の兵と成って付いていた事が発覚。
海軍操練所は幕府から弾圧され、勝も解任された。
その責任を勝は被り、謹慎の身に。
龍馬は、慣れ親しみ、自らの夢の象徴であった
海軍塾、黒船と、大阪の港で別れた。
諸藩から派遣された門下生はそれぞれの藩に戻り、
多数の脱藩浪人は幕府から捕縛される事を恐れ、
逃げ去っていった。
残ったのは龍馬たち数人の土佐脱藩郷士たち。
路頭に迷った龍馬たちは、勝の紹介で西郷隆盛を頼り、
薩摩藩邸に保護される。
勝の紹介とはいえ、勤王の敵である薩摩藩に
厄介になっているということは、不安でならなかったであろう。
リーダー格であった龍馬は、なんとかせねば!という一心で、
ある策を立てる。
まず、龍馬はなじみの旅籠「寺子屋」へ向かう。
いまや土佐藩や幕府からもお尋ね者の身の龍馬。
おいそれと外を出歩くのは、かなり危険を要する行為。
しかし、そんなことを言ってられない状況である。
寺子屋へ入った龍馬は、女将のお登勢に相談する。
ちなみにこの頃、伴侶となるお龍は寺田屋にバリバリ奉公中である。
「お登勢さん!実はのう、ワシらは今、薩摩の西郷さんや半次郎さんに
大変世話になっちょうる。いまのまんまでは、ワシらはとても心苦しいのじゃ。そこで相談なんじゃが、寺田屋で西郷さんたちを思いっきりもてなしたいのじゃ。豪勢にどーんと!!......しかし、ワシには今、その接待を持つ費用がないのじゃ......。そこでお登勢さん、ワシの将来を信じて、立て替えてくれんかのう.......。」
お登勢は龍馬を信頼している。
なんてことない頼み事であった。
二つ返事でOKを出す。
龍馬のもてなしは、西郷を初めとする薩摩藩士の御機嫌を
十二分にGETした。
しかしながら、この日、龍馬は愕然とした事実を聞く。
それは土佐の乙女姉さんからの手紙からだった。
武市、以蔵を初めとする、土佐勤王党首謀格、全員切腹という
知らせであった。いわゆる一度は同じ志を持った者たちが
ことごとく死んでいったのである。
盛り上がる寺田屋をよそに、龍馬は悲しみに暮れました。
このころから、密かに龍馬は、のちに結実する、そして日本を変える
一大同盟法案「薩長同盟」をなし得る為に動き出していたのだ。
まだ、西郷らはそれを知り由も無い。
その龍馬の考えとはウラハラに、事実、禁門の変以降、幕府は
長州を征伐しようと大軍を差し向け、この征長連合軍の実質的な
総司令官に押し上げられたのが、薩摩の西郷であった。
西郷は「武力で全滅させるぞ」と長州を威圧し、その実、武力は使わず、
禁門の変の参謀であった長州・三家老の首を差し出させることで、
長州を服従させた。
このことで、長州人の積もり積もった憎悪・怨念はさらに増加され、
西郷に向けられた。
長州藩士・高杉晋作は逃亡し、同じく桂 小五郎は巧妙な変装で命からがら京に隠れ潜んだ。
薩摩藩に保護されている龍馬は、かねてより長州で活動している
土佐藩士・中岡慎太郎と手紙でお互いの情勢を知らせ合っていた。
西郷に龍馬は、勝海舟 仕込みの世界情勢、幕府内情を交え、自分たちが会社(カンパニー)を設立したいという旨を語った。
南北戦争が終わったばかりのアメリカ軍の鉄砲が上海の港に山積みされている事実をうまく伝え、
西郷は龍馬の先見の明に強く同調し、すぐさま薩摩藩主・島津久光に掛け合い、龍馬に船と資金を提供した。
これで誕生したのが、日本初の株式会社「亀山社中」である。(後に海援隊)
業務は主に、上海からの武器の輸入、物産、物資の貿易。
ここから龍馬は、日本の大改革に奔走してゆく。
by green-ball
| 2009-04-08 22:01
| 文化